浅野総一郎と東京湾埋立構想
当社の歴史は、1908(明治41)年、浅野財閥の総帥・浅野総一郎が、鶴見川の河口に広がる海面約150万坪の埋立事業計画を神奈川県庁に提出したことに、第一歩が標される。
さらに、浅野総一郎は、渋沢栄一、安田善次郎の支援を受けて、1912(明治45)年、鶴見埋立組合を設立し、東京湾埋立という壮大なプロジェクトの実現に向けて踏み出した。
現場を踏査する総一郎
HISTORY
埋立事業の創始、工業地帯の出現
1914(大正3)年、鶴見埋築(株)が発足し、鶴見埋立組合の事業を引き継いだ。 同社が最初に埋立工事に着手した第7区(現神奈川県鶴見区末広町)7万坪の工事は1915(大正4)年末に完了し、そのうち2万5,000坪が旭硝子株式会社に売却された。この旭硝子鶴見工場は鶴見埋築(株)による鶴見・川崎地先埋立地に進出した記念すべき第一号となった。
ポンプ船第一号船(後の潮田丸)
HISTORY
関東大震災と京浜工業地帯の発展
1920(大正9)年1月、東京湾埋立(株)が設立され、鶴見埋築(株)を吸収合併し、その事業を全て継承した。“鶴見から東京湾”へと事業拡大を図る狙いがあった。
その後、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災は、多大な被害をもたらしたが、鶴見・川崎地区の埋立地の被害は、東京に比べると軽く、埋立地の安全性を立証することになった。東京方面から京浜地区へ進出する工場が増え、同地区は本格的な発展期を迎える。
鶴見・川崎間埋立平面図「1924(大正13)年」
HISTORY
昭和恐慌下での経営
1927(昭和2)年3月15日の渡辺銀行の破綻に始まる金融恐慌、そして1930(昭和5)年1月の金解禁による不況が重なり、日本経済は深刻な危機に陥る。東京湾埋立(株)は産業界の設備投資意欲の減退、埋立地の売却の急減から経営危機に見舞われる。
安善町全景「1928(昭和3)年ごろ」
HISTORY
東京湾埋立(株)の変貌
1933(昭和8)年に入ると人絹工場の増設ブームが訪れ、瀬戸内沿岸の工場用地造成の請負工事が押し寄せる。また、日本フォード(株)との間で、鶴見区末広町の北半分約11万2,000坪の売買契約が成立するなど、経営回復の兆しが見えてきた。
埋立地の販売促進宣伝「1939(昭和14)年」
東京湾埋立(株)事業案内
HISTORY
戦時下、全国各地で造成事業
港湾工業(株)は、1937(昭和12)年以降、それまでの平和産業や中小港湾を対象とする形態から、外地及び軍あるいは軍需産業のための大型工事を優先せざるを得ない時代へ移行していく。そして、1944(昭和19)年4月30日、東京湾埋立(株)と港湾工業(株)は合併し、新たに東亜港湾工業(株)として発足した。
台湾で活躍した高雄丸に続いて当社京浜出張所のドッグで建造中の六郷丸
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