戦後復興と臨海部への企業進出

太平洋戦争終戦後の1945(昭和20)年9月14日、連合軍による羽田飛行場A滑走路の復旧や拡張の命令が下った。以後、運輸省新潟港浚渫工事や三井鉱山(株)の大牟田市三池鉱業所埋立工事を受注するなど、戦後復興の波に乗って工事実績を重ねていった。

羽田飛行場の復旧と拡張工事

羽田飛行場の復旧と拡張工事

復旧工事で六郷丸と共に活躍した羽田丸

復旧工事で六郷丸と共に活躍した羽田丸

ポンプ式浚渫船武蔵丸売却「1952(昭和27)年」戦後、アメリカからビルマ(現・ミャンマー)への支援物資として米軍に買い取られた。

ポンプ式浚渫船武蔵丸売却「1952(昭和27)年」戦後、アメリカからビルマ(現・ミャンマー)への支援物資として米軍に買い取られた。

HISTORY

1945年9月11日
連合軍の接収により本社事務所急遽移転
1946年4月30日
臨時株主総会で岡部三郎、社長就任
1949年5月16日
東京証券取引所に株式上場
1952年2月11日
ディーゼル式ポンプ船「武蔵丸」を米軍に売却
(ビルマに対する援助物資として)

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第1次埋立ブームの到来

建設当時の本社ビル

建設当時の旧本社ビル
2009年まで本社所在地となった。

日本経済の高度成長(昭和30年代)を背景に、1958(昭和33)年頃から急激に港湾事業が増大し、臨海埋立事業の躍進をバックに、埋立浚渫業界は飛躍的な発展期を迎える。当社もこの時期、新型のポンプ船を建造、投入し、業績は続伸し資本の増強が図られた。

HISTORY

1957年7月
(神奈川県企業庁)川崎臨海工業地帯造成事業埋立工事着工
1957年10月1日
京浜・大阪・下関・北海道支店開設
1961年3月4日
旧本社ビル(千代田区四番町)落成式

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全国に拡大する埋立造成事業

鹿島港中央航路浚渫「1965年(昭和40)年代前半」

鹿島港中央航路浚渫
「1965年(昭和40)年代前半」

1962(昭和37)年に制定された「新産業都市建設促進法」を背景に、引き続き臨海部の開発が進められた。当社も、岡山県の水島地区の川崎製鉄(株)水島工場敷地造成工事や、三菱石油(株)の航路浚渫工事、福山の日本鋼管(株)臨海工業地帯土地造成工事などを手がけていく。なかでも鹿島臨海工業地帯の造成は国家的プロジェクトであり、当社は中央航路の浚渫、南防波堤の建設などに従事した。

HISTORY

1962年1月
社内報「東亜」創刊
1963年11月11日
海外事業部(現国際事業部)新設

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体質の強化と計画経営

ジョロン地区浚渫工事

ジョロン地区浚渫工事

1965(昭和40)年末から1971年にかけて連続56ヶ月に及ぶ「いざなぎ景気」にあって、港湾整備事業への投資は依然として高い水準にあったが、当社の事業内容は浚渫工事の比率が下がり、一般土木の比率が上回るようになっていく。企業経営は政府の経済政策を積極的に取り込む時代になっていた。

HISTORY

1964年8月4日
戦後初の海外工事受注(シンガポール経済開発局)ジョロン地区浚渫工事
1968年1月10日
経営計画(三ヶ年計画)策定

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陸上部門へ進出、総合土木を目指す

陽新幹線西厚狭地区路盤その他工事

山陽新幹線西厚狭地区路盤その他工事
(橋台、高架橋を担当)
当社で初めての新幹線工事となった。
延長960m、盛土20万m3

1972(昭和47)年7月、日本列島改造論を掲げて田中角栄内閣が登場すると日本列島改造ブームが生じる。こうしたなか当社は、港湾関係以外に一般土木特に道路、橋梁、建築基礎、沈埋トンネル並びに内陸と海面を含めた宅地造成工事および海洋開発の一部への進出を打ち出す。

HISTORY

1969年9月30日
経営五ヶ年計画発表
1971年
サンドドレーン船1号購入
1972年2月1日
名古屋支店開設

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