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浅野総一郎

このページでは、
実業家 浅野総一郎の生涯をご紹介しています。

浅野総一郎

銭屋五兵衛

当社創業者である浅野総一郎は、嘉永元年(1848年)3月10日、富山県氷見郡藪田村(現富山県氷見市)に、医者の長男として生まれました。幼名泰次郎。
6歳のとき父泰順は長女に婿を迎えて家業を継がせ、総一郎は氷見の町医者のもとに養子に出されます。
そんな総一郎少年は郷土の偉人、銭屋五兵衛にあこがれを抱き「いつかはおれも、五兵衛のような大商人になりたい」と夢を描いていました。
14歳のとき実家に戻ると、まもなく姉夫婦が相次いで病死、実父はすでになく、遺された母と弟を抱え、15歳の総一郎は奮起します。後に“セメント王”、 “資源再生王”、“臨海工業地帯開発の父”と呼ばれ、一代にして浅野財閥を築いた事業家、浅野総一郎の誕生です。

九転十起

このあと事業を興しては挫折する繰り返しで「七転び八起き」ならぬ「九転十起」の人生でしたが、自分が正しいと信じた道には、失敗を恐れず何度でも挑戦する、不撓不屈の闘志で立ち向かいました。
24歳の初夏、幾たびかの事業に失敗の末、上京し、お茶の水で砂糖を入れた冷水を売る「冷やっこい屋」を始めます。元手のかからないこの商いで、夏の終わりには12円が手元に残りました。
青年総一郎は、次に味噌や菓子、寿司などの包みに使われていた竹の皮に着目します。
この商売が軌道に乗ると、薪、炭そして石炭と手を広げていき、明治7年には石炭販売が好調なことから、石炭専業に切り替えました。
しかし、再び試練がやってきます。
明治8年(1875年)、近所の火事により家が全焼し、3万円(現在の約3億円)近い財産を失いました。
総一郎にとって、かつてない大打撃でしたが、これまで築き上げてきた「信用」という財産で再挙を図りました。

資源再生王

横浜市営瓦斯局で毎日排出される燃料炭の残骸コークスの処理に困っていたことに着目、東京深川の官営セメント工場の技師鈴木儀六を訪ね、コークス利用の研究を依頼します。結果は良好で、早速瓦斯局と交渉し安値で数千トンのコークスを買い取り、大きな利益を得ました。
明治11年(1878年)横浜瓦斯局は、これもまた処理に困っていた廃物のコールタールの販売を委託してきました。
浅野は当時コレラの流行で不足していた消毒用の石炭酸として再利用し成功を収めました。

渋沢栄一と安田善次郎

明治9年(1876年)、浅野にとって生涯の恩人に出会います。第一国立銀行頭取で抄紙会社(後に王子製紙)社長でもあった渋沢栄一その人です。この後の深川セメント工場の払い下げ、磐城炭坑の開発、浅野回漕店(海運業)発足には常に渋沢栄一の惜しみない支援がありました。
明治29年(1896年)、浅野は永年の夢であった外国航路への進出を目指し、渋沢をはじめ主だった財界人を招き協力を求めました。この席で天下一のしまり屋といわれていた安田善次郎がまず賛成したことで、参加者全員が新会社設立に参加することになります。安田はこのころから、浅野の事業家としての度胸と手腕に惚れ込んで、資金の面倒をみるようになっていました。
ちなみに当社の社章は三羽の鶴をデザイン化したものですが、これは創業に関わる地名(鶴見)と浅野・安田・渋沢の三氏を象徴したものです。

欧米の港湾視察

東洋汽船株式会社が設立されると、浅野は航路選定と汽船購入のためアメリカへ渡り、太平洋横断航路の話をまとめ、次にイギリスへ渡り汽船3隻を発注します。その後ヨーロッパ各地を巡り、横浜港に帰ってきたのは明治30年(1897年)4月のことでした。
この外遊で、浅野の目を奪ったのは、各国港湾施設の発達ぶりでした。
当時日本では、大型船は沖合に停泊し“艀(はしけ)”によって荷役を行う「沖懸り(おきがかり)」が一般的で、横浜港も例外ではなく貧弱な小港にすぎませんでした。
ホノルルでもバンクーバーでも艀の姿を見ることはなく、ロシアやドイツでは数千トンの船積みや荷揚げを1日程度で完了するのを目撃し、ロンドンではテームズ川の両岸に1、2万トン級の巨船が悠々と停泊している姿に驚きを隠せませんでした。
※波止場と本船を往復して貨物・乗客などを運ぶ小舟。

浅野埋立

日本の港湾が欧米に比べて大きく立ち遅れていることを痛感した浅野は、ただちに東京〜横浜間の遠浅な海岸に注目、そこに大型船が着岸できる港湾機能を有する工業用地を造成する計画に取りかかります。
明治32年(1899年)東京府知事あてに品川湾埋立出願を、明治37年(1904年)神奈川県庁に鶴見〜川崎間の埋立許可願書を、明治43年(1910 年)東京市に東京湾築港の事業許可願書を提出しますが、いずれも余人の考え及ばぬ大規模な計画であったため認可されませんでした。
この間、浅野は神奈川から東京への海岸を5度にわたって実地調査し、明治41年(1908年)には「鶴見埋立組合」を組織し、神奈川県庁に「鶴見・川崎地先の海面埋立」の事業許可申請を提出します。(これが当社の創業です。)
この計画は、埋立面積5000万平方メートル、延長4100メートルの防波堤、運河の開削、道路・鉄道の施設、橋梁、繋船設備、航路標識なども完備して理想的な一大工業用地を建設するといった壮大なものでした。
明治44年(1911年)には、この区域内で既に認められていた2件の埋立許可の埋立権を買収し、明治45年(1912年)3月、渋沢栄一、安田善次郎の協力を得て新規に約70万8000坪の埋立を出願し、合計約150万坪の埋立地造成計画としました。
新規出願となった拡張区域は漁業権をめぐって地元民との交渉が難航しましたが、大正元年(1912年)に和解。大正2年(1913年)には県の免許が下り、鶴見埋立組合によって着工されました。
翌大正3年(1914年)には「鶴見埋築株式会社」(現東亜建設工業株式会社)を創立、埋立組合の事業いっさいを引き継ぎます。この埋立事業で活躍したのがサンドポンプ船で、大正2年(1913年)にイギリスから購入した350馬力のサンドポンプ船は、日本に導入されたカッター付電動ポンプ船の第1号とされています。続いてポンプ船の国産化、近代工業用地として不可欠な電力確保のため電力事業に精力的に取り組んでいきます。
この埋立事業は15年の年月をかけて昭和3年(1928年)に一応完成し、後に「浅野埋立」と呼ばれるようになります。完成後、浅野セメント、日本鋼管、浅野製鉄所、旭硝子、日清製粉などが次々と進出し、京浜臨海工業地帯の中核となっていきます。

夢に生きた生涯

浅野総一郎が明治30年(1897年)、欧米の港湾を初めて目にしたときの驚きが浅野埋立事業の原点だったとすれば、浅野は実に40年の歳月を費やして自分の夢を実現したことになります。
『港湾』昭和5年(1930年)10月号の鶴見港見学記録にはこう記されています。
「日清製粉会社は米国、カナダ、豪州等より積載せる一万トンの本船を工場の岸壁に横づけとなし、真空吸上器によりて一時間に三百トンの揚陸をなし・・・」
日本の発展と自らの夢の実現に生きた浅野総一郎は、昭和5年(1930年)11月9日82歳の生涯を閉じます。


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